医療法人 浅田レディースクリニック

当たり前を積み重ねることで
「特別」になる

 

医療法人 浅田レディースクリニック 理事長
浅田 義正先生

一人でも多くの患者に幸せを届けたいと、「幸せ配達人」をモットーにする浅田義正先生。

愛知県の勝川クリニック、名古屋駅前クリニックに続き、2018年には東京に浅田レディース品川クリニックをオープン。培養室の見学ルームや待ち時間の改革など、患者のためのさまざまな取り組みをしています。


夢は発明家。クラブ活動に熱中した学生時代

小さい頃は工作が好きで、部品のようなものを拾ったりすると「何を作ろうか?」と考えてばかりいました。
だから、小学校の頃の夢は発明家。得意な科目は図画工作。小・中学校を通して主要科目以外が好きでしたね。
小学4年生のときに東京オリンピックが開催されて、その後、学校にサッカー部が誕生しました。各クラスから12名参加して、毎朝練習し、名古屋市3位の成績を収めました。
また、当時はテレビドラマの「柔(やわら)」や「姿三四郎」など柔道が流行っていたため、中学1年のときには柔道部に入部。
ただ「柔道は背が伸びない、耳がつぶれる、ガニ股になる」などと言われ、裸足で走っているとテニス部の女の子に笑われるような部活だったため、2年になる直前で退部しました。
その後は、背が伸びるようにバスケットボール部に入部。高校でもバスケットボール部、大学も12年時はバスケットボールの同好会に入っていました。
アメリカ留学中にマイケル・ジョーダンのNBLを見て感動し、彼のファンに。観戦は今も好きですよ。
また、大学時代にスキーにかなり熱中し、家庭教師のアルバイト代をスキーにつぎ込んだことも。今でも年に1回は滑りに北海道に行っています。最近は、上手とは言えないですが、ゴルフも月1回程度コースを回っています。

 

 


理工学部から、受験しなおして医学部へ

 

早稲田大学の理工学部の学生だったとき、医学部を落ちて理工学部に入ったという同じ下宿の学生が「医学部を受けなおす」と言っていました。
「本当に医学部は、医者は、そんなにいいのだろうか?」という思いと、オイルショックで工学部が就職難だったことが重なりました。
また、1年浪人後、2年間東京に住み、そろそろ地元に戻ってもよいのかなという思いもあり、名古屋大学医学部を受験し、名古屋に戻りました。
医者になってからは、最初は救急の必要性を感じ、愛知で初の救急救命センターを設置した病院で研修を受けました。その後、1年半ほど内科に従事したのですが、内科は死にゆく人の延命を図っているだけのようで無力感があり、産婦人科へと転科しました。
当時は、がんの告知をせず、患者には「うそ」をつき通していたのです。多くのがんは治る病気ではなかった、ということが自分にとって大きなストレスでした。

 

 


生殖医療を100%できる点に生きがいを感じる

発明家の夢に始まり、工学系の仕事に興味を持っていましたが、結局医学部に進学し、そこでも自分の専門を探し求めました。内科が嫌になってやめた部分があり、生命が生まれるという点で産婦人科は楽しかったですね。
そして、もう一つ何かを見つけようと赴いた海外でICSI(顕微授精)に出会い、私の人生が変わりました。ICSIは私のライフワークとなり、生殖医療を専門でやっていくことになったのです。
大学で研究を続けようと思っていたのですが、いろいろな事情により、開業志向は全くなかったのですが開業医になりました。
今は、生殖医療を100%できるという点で、本当に生きがいを感じています。
ただ、この仕事に出会ったのが40歳でしたので、少し遅かったかな、とも。
若い頃に「自分の専門はこれだ!」と決められる人は羨ましいが、逆にそんなに簡単に自分の専門を決められるのかな、と思わないでもないですね。
専門が決まってからは、それまでは苦痛でしかなかった英語論文を読むことも、文章をまとめることも、全く苦痛ではなくなりました。自分の好きなことをしているので「大変だ、難しい」と思ったことは全くありませんね。
生殖医療は日進月歩で、お産等よりも科学的で、どんどん進歩しており、とても面白いと感じています。

 

 


職種を超え、一致団結して動く「チーム浅田」

最初の頃は、小規模で自分一人でやっていても、「世界最先端のレベルのことをするのだ」と一生懸命勉強し、学会・研究会に出席してきました。
現在大切にしているのは、いかに自分と同じ志を持ったドクター、スタッフを育て、教育していくかということ。自分の思う生殖医療を、私がいなくなっても続けられるようになってほしいと思うからです。
「チーム浅田」は、医師、看護師、胚培養士、コーディネーター、レセプションなど、スタッフ皆で一つのチーム。ピラミッド型の組織ではなく、フラットで平等な関係です。
現在、約250名のスタッフが生殖医療の向上という目標に向け、一致団結して動いています。
「当たり前のことを、手を抜くことなく積み重ねていく。それが特別になる」と考えています。
私が自分で築きあげてきたクリニックなので当たり前かもしれないけれど、自分のクリニックには、嫌な人や一緒に働きたくない人がいません。皆が気持ちよく働いていると私は思っているし、いつも好きな人に囲まれて、私は幸せに働いています。

 

 

 


不妊治療や妊活中の人に伝えたいこと

不妊治療は急速に発達してきたため、日本では未だにスタンダードもガイドラインもなく、クリニックによって治療が全く異なるのが現状です。
20185月に品川にクリニックを開院した理由の一つは、東京に転勤する患者さんに自信をもって薦めることのできるクリニックの必要性を感じたからです。
クリニック選び・ドクター選びが、不妊治療の結果を左右する一番大きな要因だと思います。
また、それは人生設計や家族形成に直接つながります。
どこで治療するかは、非常に重要な選択です。ドクターとスタッフが「不妊治療ファースト」で働いているかどうかが、クリニック選びの大切な要素ではないかと思います。

 


PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

多くの悩みや苦痛を背負っている不妊患者さんは、妊娠すると不妊患者さんではなくなります。そのため、他の患者団体に比べて、はるかに難しい組織運営となると思いますが、それをまとめて一つの組織にし、ここまでやってこられたことは本当に素晴らしいと思います。
医療者は、とかく自分の都合の良いように物事を理解する傾向がありますが、患者さんやFineの話を聞くことで、心が洗われ、反省させられることが多いのです。Fineは非常に重要な団体であると認識しています。
これからも、ぜひ、このまま頑張っていただきたいですね。
また、多くの人が多くの体験(いうなれば失敗体験)をしてきたことと思います。新しく治療を始める人が同じ失敗をすることのないよう、スタート段階で正しい情報を提供し、悔いのない治療が受けられるようにしていただきたいと期待します。

 

 

HP:https://ivf-asada.jp/

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松田ウイメンズクリニック

 

治療にあたる医療者が幸せでなければ、
治療を受ける患者さんも
幸せにはなれない

 

松田ウイメンズクリニック院長 松田和洋先生

2000年に南九州初の不妊治療専門クリニックとして鹿児島市にオープンした松田ウイメンズクリニック。鹿児島で生まれ育ち、雄大な桜島を毎日目にしているという院長の松田和洋先生は、まわりの人から、親しみをこめて「カズ先生」と呼ばれています。

 

スタッフが還暦のお祝いをしてくれました

混声合唱団で指揮を担当、仲間は一生モノ

鹿児島で生まれ育ちました。小学生の頃の夢は「世界平和」。とはいえ、小さい頃は引っ込み思案の臆病者でしたね。
数学、理科、英語、そして体育と音楽が得意科目でした。大学時代には、100人ほどの混声合唱団に入っていました。大学3年、4年時は指揮者として音楽に没頭し、医学部の講義にはほとんど出ていませんでしたね。でも、そこでいろんな学部の人間に、人としての基本を鍛えられたと思います。
今もそのときの仲間と親しく付き合っています。仲間は一生モノですね。

会社員に疑問を抱き、医師を志望

医師を目指したのは、中学生のときです。
企業だと管理職など中間の人がいて、いろいろややこしそう、と思ったのです。間に人がいない職業は何だろうと考え、医師と患者は直接対面する仕事だと思い、それを進路に考えるようになりました。
鹿児島大学医学部を卒業したとき、私は血管外科を志望していました。研修をした鹿児島市立病院の誘いを断って、師事する先生がいた病院へ入局したのです。しかし1年後、その先生が経営陣とぶつかり、複数の医師とともに私も退職しました。
そんな折り、鹿児島市立病院の産婦人科から「新生児センターがあるから、そこで小児血管外科をやれるよ」と再び誘いを受け、入局することに。

そこで周産期医療について約1年間学んだあと、アメリカ・カリフォルニア州のロマ・リンダ大学に2年半ほど留学しました。帰国すると僕の席がまだなくて、ちょうど辞める医師がいて、その後任として生殖医療(不妊治療)を担当することに。1990年頃のことです。
僕の場合、当初から生殖医療を志したわけではなく、状況的にやらざるをえなかったというのが実情です。以来30年弱、生殖医療に携わってきました。

 

2018年のESHRE(ヨーロッパ生殖医学会)にて。展示ブースにあった精子の自転車に乗ってみました!

独立後、集中して治療ができる喜び

市立病院で生殖医療を担当して約10年後、1999年に開業を考え、その年の8月から準備を始めました。福岡県で詠田由美先生が不妊治療専門クリニックをオープンされていたので、見学にも行きました。
そして、2000年3月に鹿児島市内にクリニックを開院しました。
生殖医療に専念するために、好きだったお産をできなくなるのは、つらかったですね。病院では、お産を助産師に任せるのではなく、赤ちゃんを自分でとりあげていましたから。
しかし、独立してからは専門分野に集中して専念できるようになったのはうれしいことでした。検査も自分たちでできるので、時間のロスが減り、フットワークも軽くなりました。
鹿児島のシンボル、桜島と。

 

鹿児島は温泉がたくさんあります。ホッとするひとときです。

 


毎月の交流会、スタッフのまとまりが自慢

スタート時には5名だったスタッフは、現在26名。まとまりがあるのが自慢です。毎月食事会をしたり、なにかと行事を作って全員で参加したりしています。業務が終わったあとに院内で鍋パーティをすることもありますよ。

胚培養士と看護師は、ふだんはなかなかコミュニケーションがとりにくいようですが、交流会を行なうことで、それぞれがお互いのことを知り、仕事内容への理解も深まっています。
スタッフの結婚式で、出し物や映像を披露したこともありますよ。本人に気づかれないように、こっそりと練習を重ねたのです。僕は嵐やAKB48の振り付けで踊りました。
音楽はクラシックからジャズ、邦楽、民謡まで、ジャンルの区別なく好きなものがたくさんあります。本当は歌うことが大好きなのですが、7年前に頸髄の手術をしてから声が出なくなってしまったのです。
それから、スタッフのモノマネ、とくに歩き方などは上手いですよ。人間観察が好きなんですね。

 

毎月、なにかしらのスタッフ交流会をしています。
バランスボール(青)に乗って診察しています!

 


大切にしている「4つのS

この仕事のやりがいは、患者さんとface to faceで付き合えるところ。難しさは、患者さん全てに対して、100%の成功は約束できないところです。
私の医療への具体的な信条は、「治療にあたる医療者が幸せでなければ、治療を受ける患者さんも幸せにはなれない」。そして、「Smile(笑顔)、Sincere(誠実)、Speed(迅速)、Smart(洗練)」の「4つのS」を大切にしています。

 

スタッフの家族といっしょにお花見を楽しみました。

不妊治療をしている人、妊活中の人に伝えたいこと

自分のことをしっかりとよく知って、治療に臨んでください。家族を持つことの選択肢も、いくつかあることも知ってください。
後悔しないように。そして、必要なときには、休むことも大事です。妊娠を一番に考えないで、「いろんなことを楽しみながら妊活もする」くらいのほうが心も軽くなると思いますよ。深刻に考えないで、気楽に。
「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」くらいのほうが、うまくいくように感じます。

PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

患者さんのために頑張っているFineを支援するのは、生殖医療をやっている施設であれば当然です。主体は患者さんですから。
Fineが休むことなく、常に前進しているところを尊敬します。これからも頑張ってください。今の活動をキープして、初志貫徹でお願いします。

 

 

HP:http://www.synapse.ne.jp/~kaz/

ミオ・ファティリティ・クリニック

患者さんと一緒に夢を叶える。
僕の教科書は患者さんです

 

医療法人社団  ミオ・ファティリティ・クリニック

理事長 見尾保幸先生

 

「赤ちゃんがほしい夫婦のかけこみ寺を作りたい」と、鳥取県米子市にミオ・ファティリティ・クリニックを開院して25年。「不妊は病気や異常ではなく、ご夫婦の個性に思えます。不得手は努力して克服するのみ。夢に向かって努力することで夢は叶うのです」。
そう語る院長・見尾保幸先生の思いとは?

 

診察室の裏側でスタッフと歓談。日ごろのコミュニケーションが、よりよい医療へとつながります

 


野山を駆けまわった子ども時代

「岡山県のへそ」といわれる、途方もない田舎の山間地で育ちました。戦前は裕福であった我が家ですが、戦後の農地改革で貧しい暮らしを余儀なくされ、両親が働きに出ていたため、僕と妹は祖父母に育てられました。ときには祖父と猟銃を持って山中に出かけ、野うさぎ、キジ、たまにイノシシなどを捕獲し、食べたものです。まるで「日本昔ばなし」のような世界です。
大自然が生活の場であり遊びの場、生きとし生けるものを肌で感じ、自然に畏敬の念を抱くことも、そうした暮らしの中で身についたことです。
また、祖父母には「人に迷惑をかけてはいけない。人さまの役に立ちなさい」と、よく言われました。私の座右の銘である「利他の心」も、その影響といえるかもしれません。

祖父の最後の言葉を胸に、入試に挑んだ

親戚に裕福な開業医がいましたので、「なにくそ!」という根性で、小学生の頃から医師になりたいと思っていました。とはいえ、塾はもちろん、参考書もない田舎の生活。ひたすら教科書で勉強するばかりで、医学部進学は厳しい状況でした。また、団塊の世代であり、受験者数が多く、合格倍率が非常に高かったのです。
岡山から鳥取大学受験のため、前日に家を出発するのですが、その朝、祖父が突然、トイレで倒れました。心筋梗塞です。
祖父を部屋に運び、布団に寝かせたのですが、遠のく意識の中で、私に向かって「行け!」と言ったのです。そして、こと切れました。私は放心状態のまま鳥取へ向かい、生まれて初めて旅館に泊まり、翌日の入学試験を迎えました。すると、テスト用紙に前日勉強したのと同じ問題があったのです。
その問題を解くと、次々と他の問題も解くことができました。これは祖父が力を貸してくれたのだと感じました。そして、無事に医学部に合格できました。

世界的に活躍する教授に憧れて産婦人科へ

大学では出来の悪い学生でしたが、なんとか卒業させてもらえました。医療用超音波装置の開発と研究の第一人者として活躍されていた前田一雄教授に憧れて、産婦人科に入局しました。僕は内分泌グループに席を置かせてもらい、これがその後の生殖医療につながることになりました。
1978年、イギリスで世界初の体外受精児・ルイーズちゃんが誕生し、新聞の号外を手にして「すごいことができるんだ!」とインパクトを受けました。前田教授に「君もやってみなさい」と勧められ、後輩とともに体外受精の研究をスタート。論文を集めて読んだり、日本では当時、体外受精は畜産の領域だったため、畜産試験場を訪ねて動物の体外受精や受精卵を見せてもらったりしました。
1983年、東北大学で日本初の体外受精児が誕生しました。当時の採卵は、おなかに穴を開けて内視鏡と操作器具を入れて行なっていました。ヨーロッパでは、腹部に超音波をあてて卵巣をモニターに映し出し、それを見ながら採卵していることを知り、1984年からその方法を研究。1985年に学会で発表しました。
これが、日本で超音波を使って採卵する最初の事例となりました。

日本初の経腟超音波による採卵が
現在の産婦人科診察へと広がる

当時の採卵は、腹部から針を刺し、膀胱を通過して卵巣に到達させたので、患者さんにとってはとても痛いものでした。もっといい方法がないかと考え出したのが、腟から器具を入れる方法です。
医療機器メーカーの協力を得ながら、現在の経腟超音波機器の原型を作り、1986年に日本初の経腟超音波による採卵を行ないました。学会発表したところ、「こんなにきれいに見えるのか」と話題になり、採卵だけでなく、産婦人科の診察でも使われるようになりました。
現在、産婦人科の診察で当たり前のように行なわれている超音波検査は、もともとは体外受精の採卵から始まったのです。
大学では15名ほどのメンバーで研究を行ない、「見尾軍団」と呼ばれていました。20年間在籍した大学を辞め、1993年にクリニックを開院しました。

 

スタッフと一緒にランチ

赤ちゃんがほしい夫婦のかけこみ寺を作りたい

開院当時、「赤ちゃんがほしい夫婦のかけこみ寺を作りたい」と目標を語っていましたが、それは今も変わりません。
「患者さんのために役立ちたい、患者さんが喜んでくれるために尽くしたい」、そのために自分は何をすべきか、スタッフはどうあるべきかを常に考え、一貫して取り組んできました。
一番の夢は患者さんと一緒に赤ちゃんの夢を叶えることです。どこまで学んでも、研究しても、努力しても、これでよいということはない、というのが、この仕事のむずかしいところです。苦しいですが、それが楽しみでもあります。いつも患者さんから学ぶことが多く、僕の教科書は患者さんです。
仕事を終えてお酒をいただくときが、一日で一番ホッとする時間です。ゴルフ、ジャス鑑賞、囲碁など、趣味はありますが、それらは自分がリフレッシュして鋭気を養うためにやっている感じですね。休息も含めて、すべての時間を患者さんご夫婦の夢の実現に傾注することが何よりの達成感と醍醐味です。

常に未来思考で、昨日の自分に負けないように準備する

仕事で大切にしているのは、常に未来思考で夢を追いかけ、昨日の自分に負けないように準備すること。少しでもよい方向に常に変化していくように、うまくいかないものは方法を見直し、必要なくなったものはやめる。よりよいシステムに変えて、それを実践することを心がけています。
たとえば、当院では患者さんが来院すると、まず看護スタッフと面談します。今日の診察の目的、体調や気持ちをお聞きして、それから医師の診察となります。面談の情報を共有するので、僕ら医師はそれに即した説明や対応ができます。終了後、再び看護スタッフが患者さんと面談し、納得されて帰っていただけるように心がけています。
卵や胚のことは培養のスタッフに、助成金のことなら事務スタッフに、必要があれば心理カウンセラーにつなぎ、患者さんをサポートします。皆が一人の患者さんにかかわりを持って、患者さんを見守っています。スタッフ一同によるチーム医療で、ご夫婦の夢の実現のために立ち向かっていることは、僕の自慢でもあります。

 

各部門が連携し、チーム医療で診療にあたっています


不妊治療や妊活中の人に伝えたいこと

ネガティブにならず、「夢に向かって頑張ろう」と思ってほしいです。悩んだり落ち込んだりするのは、医療者側がすることです。

PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

PASサポーターになったのは、ややもするとネガティブで塞ぎがちになる患者さんの気持ちを勇気づけていただけると思うから。
患者さんのニーズをいち早く捉え、すぐに行動に変えていらっしゃるところは、本当に素晴らしいと思います。
これからも、患者さんが「赤ちゃんがほしい」と考えて頑張ることを応援してあげてください。今後も力を合わせて、お子さんを望まれるご夫婦のために一緒に頑張りましょう!

 

 

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