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一般社団法人 統合医療生殖学会

東洋医学と西洋医学の両面から
妊活中の人をサポートしています

一般社団法人 統合医療生殖学会

事務局長 柳田浩二さん

 

不妊で悩む人や妊活中の人を東洋医学と西洋医学の両面からサポートする、一般社団法人 統合医療生殖学会。

漢方薬局の薬剤師さんをはじめ、医師や鍼灸院の方など、
全国で約700名の会員が活躍しています。

事務局長の柳田浩二さんにお話を聞きました。


子宝カウンセラーの会として、2007年に設立

当会は、不妊に悩む方々を東洋医学と西洋医学の両面からサポートする団体として、2007年9月に設立しました。「常に不妊に悩む方々の心に寄り添い行動する」を理念に活動しています。
会のなりたちは、漢方薬局でカウンセラーをするメンバーが「子宝カウンセラーの会」という勉強会を行なっていたのが始まりです。メンバーが数100人となったことや不妊治療専門クリニックの院長とのご縁を得て、統合医療のさらなる学びと普及のために社団法人格を所得しました。
会員の約半数は薬剤師や登録販売者ですが、医師や看護師、鍼灸院のスタッフなど、多様なメンバーで構成されています。西洋医学である不妊治療、体づくりによって妊娠をめざす東洋医学、その両方を取り入れた統合医療を実践し、最短で妊娠を目指すのが大きな特徴です。
おもな活動としては、3カ月に1回(年4回)、学術集会を開催し、不妊治療専門医の講演や妊娠症例の発表、情報交換などを行なっています。
また、全国各地で妊活セミナーを開催しています。私たちの漢方薬局にいらっしゃる方の9割以上が不妊治療をされています。
セミナーでは、最新の検査方法など不妊治療の最前線の情報を提供するとともに、東洋医学の面からは薬膳や食事、生活習慣の見直しなどについてお話ししています。


漢方薬はその人に合うものを選択。
妊活には生活の見直しも大事。

漢方薬局では、体の状態や食事・睡眠など、日頃の生活について、くわしくお話をお聞きします。たとえば冷えがあれば、その原因はどんなところにあるのかを探り、体質や生活状況から、その方に合った漢方薬やサプリメントを選びます。
しかし、漢方薬を飲めば必ず卵の質がよくなる、というものでもありません。同時に生活の見直しも必要です。
朝食をとらなかったり、甘い物をとりすぎたりしてホルモンバランスが乱れている方もいます。
また、妊活というと妊娠することに目がいきがちですが、赤ちゃんを産む、子どもを健康に育てる、成長を見守る・・・というように、長い視点で考えて妊活に取り組んでいただきたいと思います。

 


体のケアと心のケアをする

この仕事のやりがいは、やはり患者さんに赤ちゃんが授かったときの喜びです。一方で、どんなに力を尽くしてもなかなか赤ちゃんが授からない方々がいらっしゃるところは、この仕事のむずかしい点です。
また、子どもができないのは女性の問題と思われがちですが、女性は相談するところがなくて、ひとりで悩んでいらっしゃることが多いです。
私たちが「カウンセラー」と名乗っているのは、体のケアとともに心のケアも大切にしているからです。
ですから、カウンセリングでは愚痴をたくさん言っていただいてかまいません。ストレスが強いと、体は女性ホルモンのエストロゲンよりも抗ストレスホルモンのコルチゾールの分泌を優先してしまい、ホルモンバランスが崩れることもあります。
妊活のストレスという悪循環から抜け出す機会をつくるのも、私たちの役目だと思っています。


不妊治療をしている人、妊活中の人に伝えたいこと

妊娠は「偶然×必然」という、かけ算と考えて欲しいですね。
「必然」は努力すること。食生活や生活改善、漢方薬、病院に通うなど、いろいろありますが、ほとんどの方は、すでにできる努力をされています。
すると、残るのは「偶然」です。
いつ妊娠するかは誰にもわかりません。やれる努力をしたら、あとは毎日を楽しく、ニコニコ笑って過ごして欲しいのです。妊活中の方はまじめな方が多いので、力を抜いて、ぜひ“新婚生活”のように毎日を楽しんでください。

 


PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

より多くの不妊に悩む方々とのご縁を広げたいと考え、FineのPASサポーターになりました。Fineは、日本ではこの分野で傑出した団体だと思います。その団体に私たちは経済的に協力できたらと考えました。
今後は、妊活セミナーや学術集会などで、当会とコラボレーションできれば、ありがたいですね。

 

HP:http://www.kodakara-c.com/

Facebook:https://www.facebook.com/kodakara.Counselor/

岡山二人クリニック

 

「信頼は情報の共有化から」
を変わらず実践

岡山二人クリニック 理事長

林 伸旨先生

 

まだ日本に不妊治療専門クリニックが数少なかった1996年、岡山県岡山市に開院した岡山二人クリニック。当初から現在に至るまで、「信頼は情報の共有化から」という理念が貫かれています。
妊娠に導いたのは1万4,300周期以上、そして出産に至らず治療を終えた方にも「卒院証」を発行しています。

 


ホルモン代謝への興味から産婦人科へ

私の父は内科医、二人の兄は神経科医と小児科医です。同じ診療科は避けたいと思ったのと、学生時代にステロイドホルモンなどの代謝に興味を持ったのが、内分泌系に進むきっかけになりました。女性ホルモンや男性ホルモンも内分泌で、それが産婦人科、そして生殖医療へとつながりました。
1974年に産婦人科医になりましたが、当然、まだ体外受精は行なわれておらず、人工授精は精液を洗浄濃縮しないで、そのまま子宮に注入していた時代です。
1978年、英国で世界初の体外受精児が誕生しました。その後、勤務する岡山大学でも体外受精がスタートし、やがて市中病院でも行なわれるようになりました。しかし、大学病院ではさまざまな病気を扱っているので、不妊治療・体外受精をされる方に対してスタッフを固定して治療にあたることができませんでした。
患者さんのためには、不妊治療センターのような形で役割分担をしたほうがいいのではないか、自分が独立して不妊治療にあたるのがいいのではないか、と思うようになったのです。
そして、1996年、岡山二人クリニックを開院しました。タイミング法、人工授精、体外受精を行ない、やがて顕微授精、凍結胚移植など、治療の範囲が拡大しました。現在、医師は非常勤も含め7名、スタッフは総勢76名で治療にあたっています。

 


「二人」「望妊」の言葉に込めた思い

開院当時、「不妊治療は女性が病院に行くもの」と一般的には思われていました。そこで「治療は夫婦で取り組むことが必要」という思いを込めて、クリニック名を「二人」としました。
「二人」は、読み方によっては「ふにん」とも読めるかな、と。
それから、「望妊治療センター」としたのは、「望妊」という言葉のほうが、患者さんと私たち医療側が意識を共有できると考えたからです。不妊治療といっても、実は不妊ではなく、これから授かるかもしれない。そのための検査や治療をするのですから、「望妊」の言葉のほうがしっくりくると思ったのです。

フタクリバンド♪

ギターで参加!

 


チーム医療で信頼される医療提供を

カップルの要望は「子どもがほしい」と大筋ではひとつでも、精神的・身体的・経済的な負担、また理解や希望は個々によって異なります。そこで重要なのが、チームでの安心・確実な医療の提供です。
妊娠へ向けた治療は、患者さんの卵胞の発育に合わせて進みますので、その方ごとのプロトコール(治療計画)を作り、それを医療者が共有し、患者さんがいつ受診されても統一した治療を行なっています。そのために電子化を進め、早くから電子カルテを導入しています。
通院患者さんは、基礎体温をパソコンやスマートフォンで入力・管理できるようにしており、それも当院と共有しています。また、通院患者さん専用のサイトを設け、個別の質問にも回答しています。
治療に入る前はもちろん、治療の途中も必要に応じて説明を行ないます。患者さんと情報を共有し、納得したうえで治療に取り組んでいただけるように努めています。
医師部のみなさん

 


チームで新しい目標を達成する。そのための日々の積み重ね

時間や環境とともに患者さんの要望は変わりますし、安全性や快適さの面からも常に改善したいと考えています。
今までのやり方を変えるのは、新しいチャレンジをすることであり、エネルギーが必要です。機関車と同じで、なにごとも走り出すときには特に力が必要ですが、走り出したらスムーズに流れ出し、やがて「以前よりよくなった」と実感するものです。これまで、ひとつずつ成功体験を積み重ねてきたことが新しいチャレンジをする力になっています。
スタッフには、他のスタッフのよいところを見つけて、私にメールで提出するように言っています。「Aさんがこうしていて、スムーズに進んだ」「Bさんがこれを手伝ってくれて助かった」など、小さなことでいいのです。
直ちに問題解決するわけではありませんが、こうした小さな積み重ねを基礎として、その先に改善があるのです。「改善点を見つけながら仕事をしよう」という視点が大事です。

 

20年勤続のみなさんと一緒に


治療を終える方には「卒院証」を手渡す

当院では、治療を終えられた方に「卒院証」をお渡ししています。妊娠・出産された方、そして「治療をやめる」というお申し出があった方に直接お渡しします。
私たちも力を尽くしたけれど、現在の医療では患者さんの希望にお応えできなかった。お互い信頼してやってきたのだから、「もうやめることにした」と言っていただいたほうが、私たちもありがたく思います。
毎年12月には、卒院された方とご家族を招いて、餅つき大会をしています。この日は、お子さん連れもOK、もちろんカップルだけでいらっしゃる方もいます。もう22回目を迎え、毎年400名くらいの方がいらっしゃいます。

 


不妊治療をしている人、妊活中の人に伝えたいこと

治療に対する「生産率」を確認しましょう。生産率とは、治療を開始して出産に至った割合です。
妊娠率や着床率ばかりに目がいきがちですが、残念ながら流産することもあります。日本産科婦人科学会では年齢ごとの妊娠率・流産率・生産率を公開しています。
また、通院先の医療機関でたずねてみるといいでしょう。
こうした情報を把握したうえで、自分たちの治療をどうするか、考えていただきたいですね。

 


PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

妊活をするカップルにとって必要な存在だと思うからです。
これまで、本当によく頑張ってこられました。患者さんのために、変わらぬ姿勢で活動を続けてこられたことに頭が下がります。
今後のFineに期待するのは「カップルの意見を行政に反映!」です。これからも患者さんのための活動を続けてください。

 

HP:http://www.futari.or.jp

ブログ: https://ameblo.jp/futari929

高橋ウイメンズクリニック

 

患者さんと喜びを共有する
仕事と喜びが一致する人生は幸せです

高橋ウイメンズクリニック
高橋敬一先生

 

千葉市初の不妊治療専門クリニックを開院して20年、これまで15000人以上の妊娠をかなえてきた高橋ウイメンズクリニック・高橋敬一先生。

座右の銘は「継続こそ力なり。問題は常に具体的である。」といいます。日々の診療で心がけていることとは?

 


小学生で豚や牛のお産を体験


千葉県房総半島の東岸、九十九里浜近郊の田園都市(ここはいつも強調します)で三人兄弟の長男として生まれました。実家は米農家で米の販売もしていました。のどかな田園都市、要するに、田舎の農村で、豚や牛やニワトリも飼っていました。
家畜のお産は自然分娩がむずかしいため人が手伝うのですが、私も小学生の頃から、ニワトリの卵を孵したり、家畜のお産に立ち会い、子豚や子牛を取り上げていましたよ。
当時はもちろん、自分が産婦人科医になるとは思ってもいませんでした。その頃の夢といえば、科学者になること。学校の授業も理科や数学、英語が得意でしたね。中学生のときにはロボットに興味があり、工学部を目指していました。

人間のお産を1回も見ないまま、
産婦人科医に



医師になろうと決めたのは高校生のときです。人に直接関わる仕事がしたいと思い、考えついた職業は、医師、教師、弁護士。その3択から医師を選び、医学部に進学しました。
大学6年生のとき、社会的なつながりが深い診療科に進みたいと考え、産婦人科か精神科、どちらにするか悩みました。結果的に産婦人科を選び、国立病院医療センター(現・国立国際医療研究センター病院)で研修医生活が始まったのですが・・・・・・。
「人間のお産を1回も見ないで、産婦人科医になりました」
研修医病院の自己紹介で私がそう言ったとき、婦長さんの顔が引きつったのを、今でもはっきり覚えています。
大学の産婦人科の教授が「学生はお産を見る資格はない」という考えで、私はお産に立ち会ったことがなかったのです。
研修医として勤務し、すぐにお産に立ち会い、34カ月後からは先輩医師といっしょに、1年が過ぎた頃からひとりで、赤ちゃんを取り上げるようになりました。
私がお産につくときには、婦長さんが分娩室に飛んできて、それが2年くらい続きましたね。


新しいことに魅力を感じ、不妊症の道へ

医師になって3〜4年経った頃、ひと通りの診療ができるようになると専門領域をどの方向にするか、考え始めました。
産婦人科の領域は大きく分けると「がん」と「産科」ですが、がんは悲しい思いをすることが多く、自分には向いていないと感じました。産科も好きでしたが、当時、日本で体外受精成功の話題があり、不妊症について勉強してみたいと思ったのです。
新しいことというのは、上の人から教えてもらうのとは違い、自分が勉強することが、これから新しい歴史になる。自分で道を作っていくというのは、とても刺激的でウキウキするもの。これは自分の性に合っていました。
その頃、虎の門病院に当直のアルバイトに行っていました。当時、体外受精を行なっていたのは大学病院ばかりで、民間病院は虎の門病院だけ。たいへん先進的だったのです。
定期的なミーティングがあり、その日に当直を入れて、お産のない時間はミーティングに参加させてもらいました。これがたいへん勉強になり、ますます不妊症治療に興味を持ちました。
やがて、産婦人科の先生が辞めてポストが空くということで、お声をかけていただき、1989年に虎の門病院に移りました。その後、米国・ワシントン大学(シアトル)に1年間留学してクラミジア感染と不妊症の臨床研究も行ない、トータルで10年間虎の門病院に在籍しました。
私の専門は不妊治療ですが、患者さんの病気はさまざまです。がんの勉強をしていないのに診察するのは、患者さんに申し訳ないと思うのと、あれもこれもやって中途半端になってしまう危惧もありました。
そして、虎の門病院を辞めて、千葉市で最初の不妊治療専門クリニックを開院することにしたのです。

開業後はスピード感を重視し、
1万5000人の妊娠へ

開業後は、不妊治療に専念でき、スピード感の違いを感じました。
大きな病院ではやりたいことがあっても、システムの関係で実現するまでに時間がかかりますが、開業後は自分がやると決めればすぐにとりかかれます。それが1万5000名以上の妊娠につながっているのだと思います。
クリニックの特徴として、ART(体外受精)はもちろんのこと、それ以外の可能性も常に心がけて、治療を進めています。
新しい命の始まりに関われることに、本当にやりがいを感じます。なかなか妊娠されなかった方が妊娠なさると、本当にうれしいですね。その一方で、全ての方が妊娠されるわけではないことや、体外受精では妊娠の可否がはっきりと出るので、厳しさを感じます。
もちろん、一番つらいのは患者さんです。できるだけ皆さんが納得の得られる診療を心がけたいと思っています。

「仕事」と「喜び」が一致する人生

お子さんを授かったとき、家族の方はとても喜びます。
あるとき、2人目の治療で来られた患者さんが、お子さんの写真を私に見せながら「(子どもが生まれて)人生、本当に変わりました!」とうれしそうにおっしゃいました。
その喜びを共有できるのはとてもうれしいですし、私が今、存在している意義、仕事をしている意味を実感します。
仕事、イコール自分の喜び。それが一致しているので、私はとても幸せだと思います。

不妊治療をしている人、妊活中の人に伝えたいこと

妊娠への治療法は、ひとつとは限りません。
体外受精に進んだとしても、それしかないと決めるのではなく、さまざまな可能性を考えながら治療を進めてはいかがでしょうか。

PASサポーターになったきっかけ、
Fineに期待すること

患者さんは、自分ひとりで孤独を感じていても、ご主人以外にまわりに相談できる人がいません。患者さんの精神的なサポートは必要だと思いますが、我々が直接行なう余裕がないのが実情です。
Fineには、そうした方が相談できる窓口があり、それに大きな意義を感じます。心の拠り所になるのではないでしょうか。
今度期待することといえば・・・・・・、すでにFineは、私では考えられない活動を想像以上の規模で行なっています。
そうした意味では、今までと同様に、患者さんに寄り添った活動を続けてください。それが、さらに活動を拡大していくのではないでしょうか。

 

 

HP:https://www.takahashi-w-clinic.jp/

医療法人 アイブイエフ詠田クリニック


いかに安心して
治療に
臨んでいただけるのか
いつも考えています

医療法人アイブイエフ詠田クリニック
詠田由美先生

 

1999年、福岡市に不妊治療専門クリニックをオープンして20年。以来「チームワークを大切にし、毎日スタッフとのディスカッションを欠かさずに続けてきた」という詠田由美先生。
趣味を楽しんで気持ちを切り替えるなど、
妊活のヒントも教えてくれました。


小学生のときの夢は「科学特捜隊に入ること!」

福岡県大牟田市で生まれ、北九州市で成長し、18歳からは福岡市で暮らしています。
子どもの頃は好奇心旺盛で、外でよく遊んでいました。学校から帰ると、すぐにランドセルを置いて外に飛び出し、近所の友人とドッジボール、ゴム飛び、縄跳び、鬼ごっこなど、何でもして遊びました。
小学生のときには、「ウルトラマンをサポートする科学特捜隊になりたい!」と本気で思っていました。しかし、その条件が「小学校の通知表がオール5であること」となっていたんです。
走ることが苦手で体育は✖️、子どもの頃から声がハスキーで音楽が✖️、科学特捜隊はあきらめました。その後は、明確な「なりたい職業」はなかったですね。

映画「日本沈没」がきっかけで医学部を志望

高校時代は社会や経済に興味があって、慶應義塾大学の経済学部を志望し、受験科目である英語・数学・社会の勉強に力を入れました。
ところが、映画「日本沈没」を見て、「東京で地震に遭ったら怖い!」と思って、東京に行くのをやめ、地元・福岡に残ることにしました。勉強してきた受験科目を生かすなら「医学部がいいのでは」という先生のすすめに、「なるほど」と思って医学部を受験しました。
実は父が産婦人科医なのですが、だから医師になろうと思ったこともなければ、逆に避けたこともありませんでした。
「医師になる」と決めたのは、医学部に進んでからです。
人の体のしくみの基礎はもちろん、生物学や解剖学など、どの勉強も面白くて。受験や国家試験のための勉強ではなく、興味を持って学ぶことができました。そのおかげで、現在も治療に関するヒキダシが増えました。
たとえば卵巣であれば、内科的、外科的、病理など、さまざまな領域が関係しますが、そうした多方面の視点から考えることができます。

女性でも手術に携わる機会が多い産婦人科へ

米国生殖医学会議に参加したときの写真。生殖医療に携わって30年を迎えます。
大学5年の臨床研修の頃から外科系を目指していましたが、6年生の研修がすべて終わったとき、女性でも開腹手術に携わる機会の多い産婦人科に進むことを決めました。
生殖医療については、研修医の頃に日本初の体外受精児の出生報告を学会で聞き、「どうしてもこの領域に進みたい!」と考えて、今に至ります。大学で10年ほど生殖医療に取り組み、1999年、福岡・天神にアイブイエフ詠田クリニックをオープンしました。

10年前にクラシックバレエを再開
何歳になっても進歩できると実感

体を動かすことが大好きで、小学生から大学生まではクラシックバレエ、高校はバレーボール、大学はテニス、結婚後は家族でスキーを楽しみました。すべてのスポーツは40代後半で終了し、10年前からクラシックバレエを再開しました。
小学生で始めたクラシックバレエは、中学生からは舞台にも出演しました。大学時代は勉強が大変でしたが、それでもバレエを続け、一緒に舞台で踊ったその頃の仲間とは、今も思い出話に花が咲きます。
しかし、医師になって2カ月経った頃、当直が始まったときに、これは両立がむずかしいと感じ、やめました。
10年前、約20年ぶりにバレエを再開しました。仕事帰りにスタジオに寄るのですが、好きなことをするのはリフレッシュしますね。
以前は怖くてできなかった動作が、テクニックが上がってできるようになるなど、毎回のレッスンで発見があります。そして、また舞台に立つようになりました。舞台は皆で力を合わせてつくり上げるのが本当に楽しいのです。
スタジオでいっしょに踊る仲間の中には、私の仕事を知って「治療していました」と告げられる方もいます。
お子さんを授かるという願いは叶わなかったけれど、気持ちの整理をされて、人生をいきいきと楽しむ姿を見ると、私もうれしくなります。

10年前からクラシックバレエを再開し、舞台にも立っています。

職員間のコミュニケーションが安全な医療につながる

患者さまが妊娠されて、元気に赤ちゃんを出産されたという報告を聞いたときには、喜びとやりがいを感じます。
しかし、どんなに患者さまとともに努力しても、すべての方に妊娠という結果が出せないことは、この仕事のむずかしいところです。現在の科学では妊娠のしくみが100%解明されていないことに憤りを感じます。
日々の診察では、患者さまとのコミュニケーションを大切にしています。生殖医療のプロフェッショナルとして、いかにわかりやすく、身体や治療のことを伝え、安心して治療に臨んでいただけるのか、それをいつも考えています。
クリニックの自慢は、職員のチームワークと明るさ。1日100人前後の方が受診されますが、受付、ナース、コーディネーターなど、スタッフ全員が患者さまを知っています。
そのために、日頃から部署間でお互いの仕事を理解することに力を入れています。円滑な職員間のコミュニケーションは、ミスのない安全な医療につながるからです。

不妊治療をしている人、妊活中の人に伝えたいこと

自分自身の身体のことをよく理解して、カップルに合った治療を選択してください。インターネットの情報に振り回されて、ご自身の治療を見失わないように!
そして、妊娠反応を最終目的にせず、しっかりとした母親をめざしてください。
また、妊活中は、体を動かしたり趣味を楽しむなど、好きなことに熱中する時間を持ちましょう。仕事や治療から気持ちをパッと切り替えて、ストレス解消やリラックス、リフレッシュすれば、また仕事や治療にも向き合えますよね。
運動であれば汗をかいてすっきり、体が疲れるので、夜はぐっすり眠れます。

PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

不妊という体験(つらい経験も含めて)を経験された方々の集まりだからです。患者さまに共感し、最も適切なアドバイスを行なってくださるFineの皆さん、私も何かお手伝いができればと思い、PASサポーターになりました。

 

HP:http://ivf-nagata.com/

医療法人 浅田レディースクリニック

当たり前を積み重ねることで
「特別」になる

 

医療法人 浅田レディースクリニック 理事長
浅田 義正先生

一人でも多くの患者に幸せを届けたいと、「幸せ配達人」をモットーにする浅田義正先生。

愛知県の勝川クリニック、名古屋駅前クリニックに続き、2018年には東京に浅田レディース品川クリニックをオープン。培養室の見学ルームや待ち時間の改革など、患者のためのさまざまな取り組みをしています。


夢は発明家。クラブ活動に熱中した学生時代

小さい頃は工作が好きで、部品のようなものを拾ったりすると「何を作ろうか?」と考えてばかりいました。
だから、小学校の頃の夢は発明家。得意な科目は図画工作。小・中学校を通して主要科目以外が好きでしたね。
小学4年生のときに東京オリンピックが開催されて、その後、学校にサッカー部が誕生しました。各クラスから12名参加して、毎朝練習し、名古屋市3位の成績を収めました。
また、当時はテレビドラマの「柔(やわら)」や「姿三四郎」など柔道が流行っていたため、中学1年のときには柔道部に入部。
ただ「柔道は背が伸びない、耳がつぶれる、ガニ股になる」などと言われ、裸足で走っているとテニス部の女の子に笑われるような部活だったため、2年になる直前で退部しました。
その後は、背が伸びるようにバスケットボール部に入部。高校でもバスケットボール部、大学も12年時はバスケットボールの同好会に入っていました。
アメリカ留学中にマイケル・ジョーダンのNBLを見て感動し、彼のファンに。観戦は今も好きですよ。
また、大学時代にスキーにかなり熱中し、家庭教師のアルバイト代をスキーにつぎ込んだことも。今でも年に1回は滑りに北海道に行っています。最近は、上手とは言えないですが、ゴルフも月1回程度コースを回っています。

 

 


理工学部から、受験しなおして医学部へ

 

早稲田大学の理工学部の学生だったとき、医学部を落ちて理工学部に入ったという同じ下宿の学生が「医学部を受けなおす」と言っていました。
「本当に医学部は、医者は、そんなにいいのだろうか?」という思いと、オイルショックで工学部が就職難だったことが重なりました。
また、1年浪人後、2年間東京に住み、そろそろ地元に戻ってもよいのかなという思いもあり、名古屋大学医学部を受験し、名古屋に戻りました。
医者になってからは、最初は救急の必要性を感じ、愛知で初の救急救命センターを設置した病院で研修を受けました。その後、1年半ほど内科に従事したのですが、内科は死にゆく人の延命を図っているだけのようで無力感があり、産婦人科へと転科しました。
当時は、がんの告知をせず、患者には「うそ」をつき通していたのです。多くのがんは治る病気ではなかった、ということが自分にとって大きなストレスでした。

 

 


生殖医療を100%できる点に生きがいを感じる

発明家の夢に始まり、工学系の仕事に興味を持っていましたが、結局医学部に進学し、そこでも自分の専門を探し求めました。内科が嫌になってやめた部分があり、生命が生まれるという点で産婦人科は楽しかったですね。
そして、もう一つ何かを見つけようと赴いた海外でICSI(顕微授精)に出会い、私の人生が変わりました。ICSIは私のライフワークとなり、生殖医療を専門でやっていくことになったのです。
大学で研究を続けようと思っていたのですが、いろいろな事情により、開業志向は全くなかったのですが開業医になりました。
今は、生殖医療を100%できるという点で、本当に生きがいを感じています。
ただ、この仕事に出会ったのが40歳でしたので、少し遅かったかな、とも。
若い頃に「自分の専門はこれだ!」と決められる人は羨ましいが、逆にそんなに簡単に自分の専門を決められるのかな、と思わないでもないですね。
専門が決まってからは、それまでは苦痛でしかなかった英語論文を読むことも、文章をまとめることも、全く苦痛ではなくなりました。自分の好きなことをしているので「大変だ、難しい」と思ったことは全くありませんね。
生殖医療は日進月歩で、お産等よりも科学的で、どんどん進歩しており、とても面白いと感じています。

 

 


職種を超え、一致団結して動く「チーム浅田」

最初の頃は、小規模で自分一人でやっていても、「世界最先端のレベルのことをするのだ」と一生懸命勉強し、学会・研究会に出席してきました。
現在大切にしているのは、いかに自分と同じ志を持ったドクター、スタッフを育て、教育していくかということ。自分の思う生殖医療を、私がいなくなっても続けられるようになってほしいと思うからです。
「チーム浅田」は、医師、看護師、胚培養士、コーディネーター、レセプションなど、スタッフ皆で一つのチーム。ピラミッド型の組織ではなく、フラットで平等な関係です。
現在、約250名のスタッフが生殖医療の向上という目標に向け、一致団結して動いています。
「当たり前のことを、手を抜くことなく積み重ねていく。それが特別になる」と考えています。
私が自分で築きあげてきたクリニックなので当たり前かもしれないけれど、自分のクリニックには、嫌な人や一緒に働きたくない人がいません。皆が気持ちよく働いていると私は思っているし、いつも好きな人に囲まれて、私は幸せに働いています。

 

 

 


不妊治療や妊活中の人に伝えたいこと

不妊治療は急速に発達してきたため、日本では未だにスタンダードもガイドラインもなく、クリニックによって治療が全く異なるのが現状です。
20185月に品川にクリニックを開院した理由の一つは、東京に転勤する患者さんに自信をもって薦めることのできるクリニックの必要性を感じたからです。
クリニック選び・ドクター選びが、不妊治療の結果を左右する一番大きな要因だと思います。
また、それは人生設計や家族形成に直接つながります。
どこで治療するかは、非常に重要な選択です。ドクターとスタッフが「不妊治療ファースト」で働いているかどうかが、クリニック選びの大切な要素ではないかと思います。

 


PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

多くの悩みや苦痛を背負っている不妊患者さんは、妊娠すると不妊患者さんではなくなります。そのため、他の患者団体に比べて、はるかに難しい組織運営となると思いますが、それをまとめて一つの組織にし、ここまでやってこられたことは本当に素晴らしいと思います。
医療者は、とかく自分の都合の良いように物事を理解する傾向がありますが、患者さんやFineの話を聞くことで、心が洗われ、反省させられることが多いのです。Fineは非常に重要な団体であると認識しています。
これからも、ぜひ、このまま頑張っていただきたいですね。
また、多くの人が多くの体験(いうなれば失敗体験)をしてきたことと思います。新しく治療を始める人が同じ失敗をすることのないよう、スタート段階で正しい情報を提供し、悔いのない治療が受けられるようにしていただきたいと期待します。

 

 

HP:https://ivf-asada.jp/

ブログ:https://blogs.yahoo.co.jp/asadoc88

Facebook:https://ja-jp.facebook.com/asadacl

Twitter:https://twitter.com/ivf_asada

 

山下湘南夢クリニック

患者さんの夢を叶えることが
自分の夢を叶えること

 

医療法人社団 煌の会
山下湘南夢クリニック院長  山下直樹先生

 

2009年に神奈川県藤沢市で開院した山下湘南夢クリニックは、研究成果で国際特許を取得するなど、生殖医療に貢献されています。20年以上にわたり生殖医療に携わる
院長・山下直樹先生の素顔は?

 


子どもの頃の夢は船乗りになって世界中を旅すること

 

生まれは石川県金沢市です。小学生の頃の夢は、船乗りになって世界中を旅すること。地図が好きで、どんな所なのか、どこに行こうか?と思いを馳せていました。
大人になってからも旅行が好きで、2017年には屋久島の縄文杉に会いに行きました。5時間を超えるトレッキング、霧のベールをまとった縄文杉が厳かに目の前に姿を現したとき、長年の夢が叶った瞬間でした。
旅行や運動など動くことが好きで、ひとつの所に留まっているよりも、自ら動いて見聞を広げていくのが自分には合っているようです。

医師を目指したのは、母親の影響です。私は二人兄弟なのですが、母は二人の息子を「一人は弁護士、一人は医師にしたい」という望みがありました。兄が法学部に入学したので、私は医学部を志望しました。
夢を持って息子たちを応援する母の姿に応えたい、と思ったのです。

 


産婦人科医になって15年目の転機

医師になって最初は整形外科を担当し、その後、病理検査や研究に携わりました。
しかし、再び臨床に戻ろうと考えて、動きのある明るい科がいいなと思い、これから誕生する人たちに接する産婦人科を選びました。
産婦人科医になって15年目、金沢赤十字病院産婦人科診療部長の職に就いていました。進行性のがんやハイリスクの分娩も多く、責任が重く、心身をすり減らすことが多い毎日でしたが、それなりにやりがいもあり、安定した生活を送っていました。
しかし、「本当にこのままでいいのだろうか?」と自問する日々でもあったのです。
当時の産科婦人科学会では、がん関係が主流の課題で、生殖医療(不妊治療)はほんの脇役だったのが、体外受精の成功で脚光を浴びるようになってきました。
命を延命するがん治療や出産をサポートする産科治療が意義深いのはもちろんですが、新しい生命誕生の手助けをし、挙児を希望されるご夫婦の夢を叶える生殖医療が、当時の私には曇り空に射す一筋の光のように思えたのです。
今まで築いてきた仕事と生活にピリオドを打ち、生殖医療を人生のライフワークにしようと決意しました。周囲の人々に迷惑をかけ、自分のわがままで新しい道を進むのだから、失敗は許されないし、この道で一流になるしかないと思いました。
当時、世界の生殖医療をリードしていたオーストラリア・メルボルンのMonarch大学へ研究研修医として単身渡航する準備を進め、渡航前に日本の不妊治療の先頭を走っていた3施設を見学させていただきました。
そのうちの一つの院長から「うちで勤務したらどうだ」と電話がきたのです。
この一本の電話が、私の人生の分岐点となりました。
ありがたさと未来を感じた私は、渡航をやめ、東京で生殖医療を学ぶ道を選び、現在に至ります。

 

念願の屋久杉に会った、屋久島の旅。

 

 


研究に着手し、国際特許を取得

 

一般的に日本の医療やサイエンスは、欧米に学び、それを取り入れてきました。しかし、人種や宗教、文化等が違うのですから、日本や東洋に合った医療があるはずです。
海外の医療が最善とは限らず、他にも方法があるのでは。
そう考え、研究にも携わっています。現在は、クリニックに高度生殖医療研究所を併設し、2名の専属研究員が研究を行なっています。
研究の成果として、極少数精子凍結コンテナ「MAYU」の開発で国際特許を申請中です。
精子の数が極端に少ない場合の精子凍結では、解凍したら精子が見つからなかったというケースがあります。
また、精巣腫瘍の方の採精や、白血病などの抗がん剤治療の前に精子を凍結して将来に希望を託すという方には、確実に精子を保存できることが重要です。
そうした場合にも対応するもので、蚕の繭(まゆ)からネーミングしました。
また、培養スタッフは、培養容器などに貼るラベルから揮発性物質(ガス)を出さないためのラベルを開発。培養成績の向上につながっているとともに、特許を取得し、販売もされています。

 


仕事帰りには水泳でリフレッシュ

 

一日の中でホッとする時間は、仕事の後に泳いでいるときです。夕方、フィットネスクラブに寄って、1時間半ほど無心で泳ぎます。
仕事からプライベートタイムへの気分の切り替えでもありますね。
また、楽器も好きで、学生時代はギター、6年ほど前からチェロも手にしています。いつか仕事を辞める時がきたら、チェロで「夢のあとに」を弾けたらいいなと思っています。
楽器が弾けると素敵だと思い、努力するものの、聞いた人に喜んでもらうには、プロ並の実力が必要だとわかりました。
音楽の分野では自分に才能がないと認識したので(笑)、仕事で人の夢を叶えます。
患者さんの夢を叶えるお手伝いができることに、やり甲斐を感じます。
それは自分の夢を叶えることだからです。
人ができることには限りがあります。
だから、思い上がってはいけないし、最善を尽くして、うまくいったら感謝する。
やるだけやったなら、あとは運を天にゆだねて、たとえ望む結果でなかったとしても、くよくよしないことです。
全ての人を幸せにはできないけれど、自分の周りの人にはハッピーになってほしいと思い、患者さんやスタッフに接しています。
先日、テレビ番組で不妊治療に関する特集があったので、それを見てどう考えたか、自分の考えを書いて提出する課題をスタッフに出しました。
受付やナース、培養士など、全分野のスタッフが対象で、上位3名には記念品を贈りました。それぞれの立場で考え、発信することは、学びであり、患者さんへの対応にもつながっていくと思います。

 

生殖医学会に仲間と発表しに行ったときの1枚。

 

 


不妊治療や妊活をしている人に伝えたいこと

 

情報に流されず、正しい情報を得て、自分で考えてください。
でも、子どもを持つということは、あなたがあれこれと考えるほど、むずかしいことではないと思います。
ジャンプする前に、膝の曲げ方、腕の振り方など、一つひとつ考えこんでしまっては高く飛ぶことができません。
無心になって、思い切り飛び上がると、新しい視野が開けて、今までと違う自分に出会えるかもしれません。

Fineに期待すること

 

FinePASサポーターになろうと思ったきっかけは、不妊や不妊治療についての周知、啓蒙活動が重要だと思うからです。
このまま情熱を持って、活動を継続してください。

 

 

HP:http://www.ysyc-yumeclinic.com/

松田ウイメンズクリニック

 

治療にあたる医療者が幸せでなければ、
治療を受ける患者さんも
幸せにはなれない

 

松田ウイメンズクリニック院長 松田和洋先生

2000年に南九州初の不妊治療専門クリニックとして鹿児島市にオープンした松田ウイメンズクリニック。鹿児島で生まれ育ち、雄大な桜島を毎日目にしているという院長の松田和洋先生は、まわりの人から、親しみをこめて「カズ先生」と呼ばれています。

 

スタッフが還暦のお祝いをしてくれました

混声合唱団で指揮を担当、仲間は一生モノ

鹿児島で生まれ育ちました。小学生の頃の夢は「世界平和」。とはいえ、小さい頃は引っ込み思案の臆病者でしたね。
数学、理科、英語、そして体育と音楽が得意科目でした。大学時代には、100人ほどの混声合唱団に入っていました。大学3年、4年時は指揮者として音楽に没頭し、医学部の講義にはほとんど出ていませんでしたね。でも、そこでいろんな学部の人間に、人としての基本を鍛えられたと思います。
今もそのときの仲間と親しく付き合っています。仲間は一生モノですね。

会社員に疑問を抱き、医師を志望

医師を目指したのは、中学生のときです。
企業だと管理職など中間の人がいて、いろいろややこしそう、と思ったのです。間に人がいない職業は何だろうと考え、医師と患者は直接対面する仕事だと思い、それを進路に考えるようになりました。
鹿児島大学医学部を卒業したとき、私は血管外科を志望していました。研修をした鹿児島市立病院の誘いを断って、師事する先生がいた病院へ入局したのです。しかし1年後、その先生が経営陣とぶつかり、複数の医師とともに私も退職しました。
そんな折り、鹿児島市立病院の産婦人科から「新生児センターがあるから、そこで小児血管外科をやれるよ」と再び誘いを受け、入局することに。

そこで周産期医療について約1年間学んだあと、アメリカ・カリフォルニア州のロマ・リンダ大学に2年半ほど留学しました。帰国すると僕の席がまだなくて、ちょうど辞める医師がいて、その後任として生殖医療(不妊治療)を担当することに。1990年頃のことです。
僕の場合、当初から生殖医療を志したわけではなく、状況的にやらざるをえなかったというのが実情です。以来30年弱、生殖医療に携わってきました。

 

2018年のESHRE(ヨーロッパ生殖医学会)にて。展示ブースにあった精子の自転車に乗ってみました!

独立後、集中して治療ができる喜び

市立病院で生殖医療を担当して約10年後、1999年に開業を考え、その年の8月から準備を始めました。福岡県で詠田由美先生が不妊治療専門クリニックをオープンされていたので、見学にも行きました。
そして、2000年3月に鹿児島市内にクリニックを開院しました。
生殖医療に専念するために、好きだったお産をできなくなるのは、つらかったですね。病院では、お産を助産師に任せるのではなく、赤ちゃんを自分でとりあげていましたから。
しかし、独立してからは専門分野に集中して専念できるようになったのはうれしいことでした。検査も自分たちでできるので、時間のロスが減り、フットワークも軽くなりました。
鹿児島のシンボル、桜島と。

 

鹿児島は温泉がたくさんあります。ホッとするひとときです。

 


毎月の交流会、スタッフのまとまりが自慢

スタート時には5名だったスタッフは、現在26名。まとまりがあるのが自慢です。毎月食事会をしたり、なにかと行事を作って全員で参加したりしています。業務が終わったあとに院内で鍋パーティをすることもありますよ。

胚培養士と看護師は、ふだんはなかなかコミュニケーションがとりにくいようですが、交流会を行なうことで、それぞれがお互いのことを知り、仕事内容への理解も深まっています。
スタッフの結婚式で、出し物や映像を披露したこともありますよ。本人に気づかれないように、こっそりと練習を重ねたのです。僕は嵐やAKB48の振り付けで踊りました。
音楽はクラシックからジャズ、邦楽、民謡まで、ジャンルの区別なく好きなものがたくさんあります。本当は歌うことが大好きなのですが、7年前に頸髄の手術をしてから声が出なくなってしまったのです。
それから、スタッフのモノマネ、とくに歩き方などは上手いですよ。人間観察が好きなんですね。

 

毎月、なにかしらのスタッフ交流会をしています。
バランスボール(青)に乗って診察しています!

 


大切にしている「4つのS

この仕事のやりがいは、患者さんとface to faceで付き合えるところ。難しさは、患者さん全てに対して、100%の成功は約束できないところです。
私の医療への具体的な信条は、「治療にあたる医療者が幸せでなければ、治療を受ける患者さんも幸せにはなれない」。そして、「Smile(笑顔)、Sincere(誠実)、Speed(迅速)、Smart(洗練)」の「4つのS」を大切にしています。

 

スタッフの家族といっしょにお花見を楽しみました。

不妊治療をしている人、妊活中の人に伝えたいこと

自分のことをしっかりとよく知って、治療に臨んでください。家族を持つことの選択肢も、いくつかあることも知ってください。
後悔しないように。そして、必要なときには、休むことも大事です。妊娠を一番に考えないで、「いろんなことを楽しみながら妊活もする」くらいのほうが心も軽くなると思いますよ。深刻に考えないで、気楽に。
「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」くらいのほうが、うまくいくように感じます。

PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

患者さんのために頑張っているFineを支援するのは、生殖医療をやっている施設であれば当然です。主体は患者さんですから。
Fineが休むことなく、常に前進しているところを尊敬します。これからも頑張ってください。今の活動をキープして、初志貫徹でお願いします。

 

 

HP:http://www.synapse.ne.jp/~kaz/

ミオ・ファティリティ・クリニック

患者さんと一緒に夢を叶える。
僕の教科書は患者さんです

 

医療法人社団  ミオ・ファティリティ・クリニック

理事長 見尾保幸先生

 

「赤ちゃんがほしい夫婦のかけこみ寺を作りたい」と、鳥取県米子市にミオ・ファティリティ・クリニックを開院して25年。「不妊は病気や異常ではなく、ご夫婦の個性に思えます。不得手は努力して克服するのみ。夢に向かって努力することで夢は叶うのです」。
そう語る院長・見尾保幸先生の思いとは?

 

診察室の裏側でスタッフと歓談。日ごろのコミュニケーションが、よりよい医療へとつながります

 


野山を駆けまわった子ども時代

「岡山県のへそ」といわれる、途方もない田舎の山間地で育ちました。戦前は裕福であった我が家ですが、戦後の農地改革で貧しい暮らしを余儀なくされ、両親が働きに出ていたため、僕と妹は祖父母に育てられました。ときには祖父と猟銃を持って山中に出かけ、野うさぎ、キジ、たまにイノシシなどを捕獲し、食べたものです。まるで「日本昔ばなし」のような世界です。
大自然が生活の場であり遊びの場、生きとし生けるものを肌で感じ、自然に畏敬の念を抱くことも、そうした暮らしの中で身についたことです。
また、祖父母には「人に迷惑をかけてはいけない。人さまの役に立ちなさい」と、よく言われました。私の座右の銘である「利他の心」も、その影響といえるかもしれません。

祖父の最後の言葉を胸に、入試に挑んだ

親戚に裕福な開業医がいましたので、「なにくそ!」という根性で、小学生の頃から医師になりたいと思っていました。とはいえ、塾はもちろん、参考書もない田舎の生活。ひたすら教科書で勉強するばかりで、医学部進学は厳しい状況でした。また、団塊の世代であり、受験者数が多く、合格倍率が非常に高かったのです。
岡山から鳥取大学受験のため、前日に家を出発するのですが、その朝、祖父が突然、トイレで倒れました。心筋梗塞です。
祖父を部屋に運び、布団に寝かせたのですが、遠のく意識の中で、私に向かって「行け!」と言ったのです。そして、こと切れました。私は放心状態のまま鳥取へ向かい、生まれて初めて旅館に泊まり、翌日の入学試験を迎えました。すると、テスト用紙に前日勉強したのと同じ問題があったのです。
その問題を解くと、次々と他の問題も解くことができました。これは祖父が力を貸してくれたのだと感じました。そして、無事に医学部に合格できました。

世界的に活躍する教授に憧れて産婦人科へ

大学では出来の悪い学生でしたが、なんとか卒業させてもらえました。医療用超音波装置の開発と研究の第一人者として活躍されていた前田一雄教授に憧れて、産婦人科に入局しました。僕は内分泌グループに席を置かせてもらい、これがその後の生殖医療につながることになりました。
1978年、イギリスで世界初の体外受精児・ルイーズちゃんが誕生し、新聞の号外を手にして「すごいことができるんだ!」とインパクトを受けました。前田教授に「君もやってみなさい」と勧められ、後輩とともに体外受精の研究をスタート。論文を集めて読んだり、日本では当時、体外受精は畜産の領域だったため、畜産試験場を訪ねて動物の体外受精や受精卵を見せてもらったりしました。
1983年、東北大学で日本初の体外受精児が誕生しました。当時の採卵は、おなかに穴を開けて内視鏡と操作器具を入れて行なっていました。ヨーロッパでは、腹部に超音波をあてて卵巣をモニターに映し出し、それを見ながら採卵していることを知り、1984年からその方法を研究。1985年に学会で発表しました。
これが、日本で超音波を使って採卵する最初の事例となりました。

日本初の経腟超音波による採卵が
現在の産婦人科診察へと広がる

当時の採卵は、腹部から針を刺し、膀胱を通過して卵巣に到達させたので、患者さんにとってはとても痛いものでした。もっといい方法がないかと考え出したのが、腟から器具を入れる方法です。
医療機器メーカーの協力を得ながら、現在の経腟超音波機器の原型を作り、1986年に日本初の経腟超音波による採卵を行ないました。学会発表したところ、「こんなにきれいに見えるのか」と話題になり、採卵だけでなく、産婦人科の診察でも使われるようになりました。
現在、産婦人科の診察で当たり前のように行なわれている超音波検査は、もともとは体外受精の採卵から始まったのです。
大学では15名ほどのメンバーで研究を行ない、「見尾軍団」と呼ばれていました。20年間在籍した大学を辞め、1993年にクリニックを開院しました。

 

スタッフと一緒にランチ

赤ちゃんがほしい夫婦のかけこみ寺を作りたい

開院当時、「赤ちゃんがほしい夫婦のかけこみ寺を作りたい」と目標を語っていましたが、それは今も変わりません。
「患者さんのために役立ちたい、患者さんが喜んでくれるために尽くしたい」、そのために自分は何をすべきか、スタッフはどうあるべきかを常に考え、一貫して取り組んできました。
一番の夢は患者さんと一緒に赤ちゃんの夢を叶えることです。どこまで学んでも、研究しても、努力しても、これでよいということはない、というのが、この仕事のむずかしいところです。苦しいですが、それが楽しみでもあります。いつも患者さんから学ぶことが多く、僕の教科書は患者さんです。
仕事を終えてお酒をいただくときが、一日で一番ホッとする時間です。ゴルフ、ジャス鑑賞、囲碁など、趣味はありますが、それらは自分がリフレッシュして鋭気を養うためにやっている感じですね。休息も含めて、すべての時間を患者さんご夫婦の夢の実現に傾注することが何よりの達成感と醍醐味です。

常に未来思考で、昨日の自分に負けないように準備する

仕事で大切にしているのは、常に未来思考で夢を追いかけ、昨日の自分に負けないように準備すること。少しでもよい方向に常に変化していくように、うまくいかないものは方法を見直し、必要なくなったものはやめる。よりよいシステムに変えて、それを実践することを心がけています。
たとえば、当院では患者さんが来院すると、まず看護スタッフと面談します。今日の診察の目的、体調や気持ちをお聞きして、それから医師の診察となります。面談の情報を共有するので、僕ら医師はそれに即した説明や対応ができます。終了後、再び看護スタッフが患者さんと面談し、納得されて帰っていただけるように心がけています。
卵や胚のことは培養のスタッフに、助成金のことなら事務スタッフに、必要があれば心理カウンセラーにつなぎ、患者さんをサポートします。皆が一人の患者さんにかかわりを持って、患者さんを見守っています。スタッフ一同によるチーム医療で、ご夫婦の夢の実現のために立ち向かっていることは、僕の自慢でもあります。

 

各部門が連携し、チーム医療で診療にあたっています


不妊治療や妊活中の人に伝えたいこと

ネガティブにならず、「夢に向かって頑張ろう」と思ってほしいです。悩んだり落ち込んだりするのは、医療者側がすることです。

PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

PASサポーターになったのは、ややもするとネガティブで塞ぎがちになる患者さんの気持ちを勇気づけていただけると思うから。
患者さんのニーズをいち早く捉え、すぐに行動に変えていらっしゃるところは、本当に素晴らしいと思います。
これからも、患者さんが「赤ちゃんがほしい」と考えて頑張ることを応援してあげてください。今後も力を合わせて、お子さんを望まれるご夫婦のために一緒に頑張りましょう!

 

 

HP:https://www.mfc.or.jp

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明大前アートクリニック

クリニックでは、朝の始業前にコーヒーをネルドリップで淹れています

 

人生をかけて治療する患者さんを
真剣にサポートしたい

 

明大前アートクリニック院長 北村誠司先生

 

総合病院や不妊治療専門クリニックで、約30年にわたって不妊治療に携わってきた北村誠司先生。一人ひとりの患者さんに向き合う理想の診療を目指して、2018年2月に東京・明大前に明大前アートクリニックを開院しました。


子どもの頃、歯科医なろうと思った。
母の歯を治してあげたかったから

小学生の頃は足が速いのが自慢で、野球やサッカーに明け暮れていました。当時の男の子の多くが憧れたように野球選手になりたかったのと、歯科医もいいな、と思っていました。おふくろが歯が悪かったので「それを治してあげたい、喜んでほしい」という思いからです。
しかし、小学校高学年になって中学進学を考えたとき、いくつか検討した志望校には歯学部がなかった。そこで両親の勧めもあり、医学部がある慶應義塾普通部を志望しました。医師といっても、まだ漠然としたイメージでしたね。

医局の雰囲気が好きで産婦人科へ。
命を生み出す医療に出会い、「自分の道はこれだ!」と確信

慶應義塾大学医学部6年のとき、外科や泌尿器科など、さまざまな診療科で臨床実習をしました。産婦人科を選んだのは、医局の雰囲気がとてもよかったからです。楽しくて優しい先生が多かったですね。
医師になって2年目に、重症患者さんに対応する3次救急病院に赴任しました。がんで治療をしても治らずに亡くなる方々に向き合い、医師として無力感に襲われました。そんなとき、産科で新しい命の誕生に触れると、気持ちが癒やされることが多かったですね。
その後、赴任した済生会中央病院は、当時、東京で体外受精を行なっていた三つの施設のうちのひとつ。そこで、精子と卵子という細胞から命を生み出す生殖医療に出会い、「自分の道はこれだ!」と確信しました。その後荻窪病院、その不妊治療部門である虹クリニックを経て、20182月に明大前アートクリニックを開院しました。トータルで約30年、生殖医療に携わっています。
病気を治療してよくなるのは産婦人科も他の科も変わりませんが、生殖医療が他科と違うのは、「新しい命を生み出す」こと。そのお手伝いをして、患者さんの期待に応えることが、この仕事のやり甲斐であり、醍醐味ですね。

 

行きつけの居酒屋の前で。休日は自転車で多摩川沿いをサイクリングしています。

日本酒が好きですが、
万全の体調で診療にのぞむために飲むのは休日前だけ

日常でホッする時間は、お酒を飲んでいるときです。日本酒やワインが好きですね。特に日本酒は、複雑な味や香りを楽しめるところがいいですね。でも、飲むのは休みの前日だけです。
万全の体調で仕事をするために、平日はお酒を飲まずに就寝します。体調がよく、心身に余裕がある状態で診察できれば、患者さんの様子を深く読み取ることができ、気づいたことがあれば対策もとれます。
患者さんは人生をかけて治療をしていると思うので、こちらも真剣に、命がけで治療にあたります。

朝はコーヒーを飲みながら診療の準備をするのが日課。
患者さんのために、できるだけのことをやりたい

朝は7時頃にクリニックに出勤して、ネルドリップでコーヒーを淹れています。患者さんが来るまでの間、コーヒーの香りの中で仕事の準備をするのが日課です。クリニックにはコーヒーグッズもいろいろ揃えていますよ。
クリニックはワンフロアで、患者さんとスタッフが接しやすいと思います。患者さんのためにはできるだけのことをやろうという姿勢で、男性不妊には専門医が対応し、また心理カウンセラーに相談できる態勢もととのえています。

不妊治療や妊活中の人に伝えたいこと

ご自分たちの納得のいく治療を進められるとよいと思います。そのためには、自分たちの希望を、しっかりと医師に伝えることが大事です。わからないことは、医師やスタッフに遠慮なく聞いてください。
患者さんが声をかけやすいように、私たちスタッフは日ごろからコミュニケーションをとることが大事だと思っています。そのきっかけになればと、自分のブログでは食事やサイクリングなど、プライベートの話題も書いています。家族を話題にしたときには、妻に注意されることもありますけれどね(笑)。

PASサポーターになったきっかけ、Fineに期待すること

Fineが取り組む活動に共感する部分があったから、PASサポーターになりました。これからも、不妊治療患者さんたちの道しるべとなってほしいですね。

明大前アートクリニック
HP:https://www.meidaimae-art-clinic.jp
ブログ:https://ameblo.jp/kitasama8612/